プロになって20年が経ちました。
ここまで続けて来られたのは、
応援してくださる方々や鍛えてくれた先輩方、業界・マスコミ関係者の方々のおかげだと思っています。
私は学生プロレスのチャンピオンでしたが、プロの世界に入った時は辛くて何度も挫折しそうになりました。
プロレス界は今ほど開放的な時代ではなく、今より何十倍何百倍厳しい世界でした。
所属していたある団体では
背が低いからせめて体重を85kgにしろと言われ、
食事に連れて行ってもらう時は吐くまで食べさせられました。食の細い私にとってはとても辛い食生活でした。
巡業に入ればほとんど朝まで寝られず、雑用と第一試合をこなすのがやっと。
試合で殴られ、控え室で殴られ(笑
励ましてくれたのは一緒に巡業を回っていた邪道さんやメキシカン達でした。
温泉宿に宿泊していた時、深夜の大浴場で邪道さんと一緒になり、
「お前はもう一度メキシコに行った方がいい」
と言ってくださり…
私は3度目のメキシコ行きを決意し、アルバイトで貯めたなけなしの金をはたいて再々度メキシコに渡りました。
日本人の宿泊客の居ない一泊50ペソ(当時500円ほど)のホテルに泊まり、そこで年越しをしたこともありました。
冬場なのにシャワーのお湯が水だったり、そもそも水が無い日もあったり。
忘年パーティーだと言って現地のレスラー達に誘われ、ついて行くとそこはあるプロレス会場の屋上。内緒で忍び込み、ビールとタコスの具材を持ち込んでの20名ほどの忘年会でした。
日本通のメキシコ人レスラーが
「こいつの国(日本)は原爆を二度も落とされたんだ。辛い思いをした国だから勤勉で真面目なんだ。そういう国からこいつはやって来たんだ」
と仲間のメキシコ人レスラー達に話していました。
陽気でいい加減なメキシコ人達ですがこの時ばかりは皆真剣に聞き入ってました。
その日本通のレスラーが突然、
スキヤキソング(上を向いて歩こう)を下手くそな日本語で歌い出し…
私は涙が止まらなくなってずーっとメキシコシティの空を見上げていました。
かっこいいことなど一つもありませんでしたが、遠い異国の同じ夢を持つ若者たちと語り合えたことはとても意義深いことだと思っています。
この3度目の旅で私はルチャの特殊な技、日本人が誰も使わない技を数種類体得しました。
帰国後は、大阪プロレス、みちのくプロレスと順に所属させていただきました。
みちのくプロレスではサスケさんに大変お世話になりました。
新崎さんははやての生みの親です。
東郷さん、外道さんには素顔時代に試合を通してプロレスを実地で叩き込んでもらいました。育ての親です。
私は
一つ一つの技や動きを紐解いて手取り足取り誰かに教わったことは一度もありません。
そういう時代でもありました。
見て覚えるか、
試合を通じて気づかされるか、
それしかなかった時代に良いものを見ることができ、
細やかな試合運びにたくさんの気づきを体験させてもらえたのです。
伝えきれないほどの思いがあるのですが
それが何かは言葉などでは到底説明できません。
私はあまり、今まで何周年ということを言って来ませんでした。
10周年の時も15周年の時も。
大先輩たちがいらっしゃるのに自分などがたかだか10年くらいでそういうことを言うのは失礼だしカッコ悪いことだと思っていたからです。
今回の20年も甚だ恥ずかしい話なのですが、
私に次の30年はないものと確信してまして…
ですから私のレスラーデビュー何周年という話は今回の20年で最後になるかと思います。
この20周年の節目に、
今まで支えてくださった全ての方に感謝の気持ちを伝えるとともに、後から来る人たちのため、より良いコミュニティー作りのために自分が積み上げて来たものをお返しするべく気持ちを新たに頑張っていきたいと思います。
「皆さん本当にありがとうございました
あと少しだけお付き合いくださいませ」
西田秀樹・はやて